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大阪地方裁判所 昭和40年(わ)2247号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

一公訴事実およびこれに対する判断の要旨

本件の告訴事実は、「被告人は旭都島商工会の役員であるが、昭和三九年一一月一七日午後二時五〇分ころ、大阪市旭区今市町一丁目一四三番地毛糸編立業遠藤政夫方玄関土間において、同人の昭和三九年所得税の概況調査に従事していた旭税務署所得税課勤務大蔵事務官望月健一郎(当四〇年)に対し、二回にわたり、両手で同人の胸部を突き玄関踏み台に尻もちをつかせる暴行を加え、もつて同人の職務の執行を妨害した。」というのである。

本件の争点は、望月健一郎の従事していた職務(所得税の事前調査)が適法な公務であるかどうか、本件当時同人の右職務執行は終了していたかどうか、ならびに、被告人が同人に対し暴行を加えた事実があるかどうかの三点であつて、とりわけ事前調査の適法違法をめぐる問題が主たる争点とされていたのであるけれども、暴行事実の存在が立証されないときは、すでにこの点において被告人に対し無罪を言い渡すべきものであつて、さらにその余の争点に立ち入つて判断を加えてもそれは単に傍論ないしは余論としての意義があるのにすぎず、かかる判断は事案の具体的解決に資するものではなくなんら必要のないことである。前々裁判長が、本件審理の初期の段階においてまず暴行事実の存否について証拠調を行なう旨審理方針を明らかにした(第一二回公判調書)のも故なしとしない。当裁判所は右暴行事実の存否に関するすべての証拠を仔細に検討した結果、被告人は、望月が遠藤方の玄関から退出しようとするのを制止するため、右手の平で望月の肩口あたりを叩いて元の上り框の方へ押し戻して座らせたのにとどまり、被告人が同人に対し訴因掲記のような暴行を加えた事実を認めることができず、ひつきよう、被告人の右行為は刑法上処罰の対象とするに足る不法な有形力の行使とはいえないものと判断する。その理由は以下に説示するとおりである。

二望月証言の信用性〈省略〉

三当裁判所の認定した事実

右に述べたとおり、望月証言が、それ自体においてたやすく信用し得ないものである以上、被告人の供述ならびに前記の各証言を綜合して事実を認定する以外になく、被告人の供述、望月証言、浅浦証言、遠藤証言、古川証言ならびに司法警察員作成の実況見分調書を綜合すれば、被告人が、遠藤政夫方の玄関に入り、同人に「調査は済みましたか」「見込額はききましたか」と一言二言尋ねたとき、それまで遠藤方玄関の上り框に座つていた望月健一郎がそこから立ち上り、一、二歩前に出て退出しようとしたので、被告人は、「仕事のことで話がある、もつちやん、まあ待てや」と言いながら、右手の平で望月の左肩口をぽんと叩いて押し戻したところ、そのため同人は元の上り框に押し戻されて座つた。そこで被告人は望月に対し、「春のようになつても困るやないか、見込額をきかしてくれ」などと調査結果を開示するよう要求したが、同人はそれに答えず。「帰ります」と言つて再び立ち上り、前と同じように被告人に向つて一、二歩前に出て退出しようとしたので、「今話をしとるんやないか、もつちやんよ」と言つて再びこれを制止したところ、同人はまた一たん元の位置に座つたが、すぐ立ち上つてすばやく被告人の横を通り抜けて屋外に出たとの事実を認定し得べく右の認定以上に、被告人が望月に対し訴因掲記の如き暴行を加えた事実は、本件の全証拠によつてもこれを認めることはできない。

四被告人の行為に対する評価

そこで次に被告人の右認定の行為が、刑法第九五条(公務執行妨害罪)ないしは同法第二〇八条(暴行罪)にいう「暴行」にあたるか否かについて検討する。

「暴行」とは、人に向けられた全ての有形力の行使を指すものではなく、“不法な”有形力の行使でなければならないことは、その概念自体によつて要求せられていることろである。そして、それが不法なものであるか否かは、法益侵害の程度、行使の目的、手段、態様等行為に附随する諸般の事情に照らし、法秩序全体の見地から決すべきものであり、特に本件の如く、それが殴る、蹴るといつた典型的な暴力的行為ではなく、「肩を叩く」といつた、日常生活の中でしばしみば見られ、具体的な行為状況如何によつて、あるいは違法な行為とも映じ、あるいは違法性のないことを何人もあやしまないというような非典型的行為である場合においては、特に慎重な検討を要するものというべきである。そこでそのような意味で被告人の行為が不法なものと言い得るか否かについて考えて見るに、先づ被告人の本件行為によつて望月に与えた実害が極めて軽微なものであつたことは、前記認定の事実から明らかであり、敢えて詳論するまでもないところ、〈証拠〉によれば、公訴事実にいう所得税の概況調査とは、新たな納税者を発見し、あるいは確定申告時期に行なわれる申告相談に際し、納税者に、税務署側において正しいと考える税額を申告させるよう指導する資料とするために、一定範囲の比較的少額の事業所得者を対象として、暦年の終了前に、税務職員が各事業所に臨戸して、家族構成、従業員数、設備その他の営業規則等を観察聴取し、これを予め収集された景気の動向、業種目別に調査された標準的な単位設備当りの効率あるいは売上げに対する経費率等の一般的資料に照らし、当該事業者のその年度分の所得の見込額を推計しておくために行なわれる調査であるが、対象者の数が膨大で、個々の対象者に割かれる時間がごく短時間に限られているため、いきおい調査内容は、従業員数、営業用の什器、機械の数等外形的外観的に把握される営業の概況にとどまるのが普通であり、しかも、対象者は記帳はもとより自らの売上げや経費すら正確に把握していないものが殆んどであるため、多くの者は、いざ確定申告の際には、税務署側の指導のままに、右の調査結果に基づいて算出された所得見込額に準じて、自己の税額を申告せざるを得ないのが実情であつたこと、被告人は、そしてそれは商工会の会としての見解でもあつたのであるが、税務当局が所得税法の質問検査権に基づく検査の一方法であるとする右の事前調査は、申告納税制度の趣旨に反し、かつ法令上の根拠を欠く違法な調査であり、少なくともこれを適法とするためには、事前調査を行なう必要性が具体的に明示されなければならず、かつその調査結果は、納税者にとつて将来の税額確定のうえで極めて重要な意味をもつものであるから、被調査者の要求があれば、これを開示すべきものであると信じており、現に当時旭税務署の職員の中には、被告人らの要求により、これを開示し、あるいはそのおよその見当をほのめかす者も居たことが認められる。いわゆる事前調査が質問検査権の行使として適法であるのか、違法であるのかは見解の分れるところであるが、そのいずれを採るべきかはともかく、少なくとも被告人らの主張する違法論も一つの解釈論としては充分成り立ち得るものであつて、これを「理論的に破産をきたした所説」などと簡単に一蹴し得るほど何人にも誤謬の明白な暴論であると断じ去ることはできず、まして弁護人の片言隻句をとらえて、これを「時代錯誤的な発想に基づく」などと評するのは、いささか言葉がすぎるものと言うべきであろう。また被調査官に調査結果の開示を求める権利がなく、税務当局の側にそれを開示する義務がないとしても、それが確定申告に際して、前記のとおり重要な役割を演じるものであることから考えて、被告人らが、その開示を強く望んでいた気持は充分理解し得るところであり、かつ少なくともそれを要求すること自体には何ら不法なものを含むものではない。そして第三一回公判調書中の被告人の供述部分および前掲証人遠藤政夫、同浅浦隆、同古川八郎の各証言によれば、当時商工会では、会員は事前調査等のため税務職員の訪問を受けた場合には、互いに連絡をとり、役員あるいは他の会員が調査の現場に立会し、調査結果の開示要求等について互いに援助し合うことにしていたところ、本件の当日被告人は、会員から税務職員が会員方を事前調査に回つているとの連絡を受け、商工会の税務対策部長として、その調査に立会し、調査を受けている会員を援助するため会員である遠藤方に赴き、立ち去ろうとする望月に対し、今行なわれた調査結果の開示を要求するため、同人を今暫らくそこにとどまらせるべく、前記認定の所為に及んだものであることが認められる。

以上詳述した諸点を綜合考慮すれば、望月が遠藤方を退去したあとの被告人の行動、すなわち居合せた会員の浅浦隆、古川八郎とともに調査結果の開示等を要求しながら、近くのバス停まで望月のそばを離れずについて歩いたことその他右に述べた以外の本件に附随する一切の事情を考慮に入れてもなお、被告人の本件行為は、その動機、目的においてあえて不法、不当と言わなければならないほどのものはなく、その手段態様にも特段の悪らつ性、粗暴性、被廉恥性といつたものは認められない。かかる行為は、積極的に正当なものとは言えないにしても、何人も処罰価値を欠くものとしてあやしまずこれを看過する程度のことであり、社会一般の処罰感情を刺激するほどのものではない。これを要するに、被告人の行為は、刑罰法規によつて処罰の対象とするに足る不法な有形力の行使ということはできないものと考える。

五結論

結局被告人の行為は、刑法第九五条、第二〇八条にいう「暴行」にはあたらないということになり、その余の点について論ずるまでもなく、被告人に対する本件公訴事実は犯罪の証明がないことに帰着するので、刑事訴訟法第三三六条により、被告人に対し無罪の言渡をする。

よつて主文のとおり判決する。

(浅野芳朗 西田元彦 島田清次郎)

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